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質問1 気持ちのこと

質問1 気持ちのこと

診断後、どのような気持ちでしたか。
治療中、治療後とその気持ちはどのように変化していきましたか。
また、気持ちの変化に影響を与えたものは何ですか。

Aさんアイコン

最初は、「本当にエッ、信じられへん、この人なに言ってんの?」という感じだった。
授乳中だったので家を空けることなど考えられなかったが、「治療入院どれくらい必要か?」と聞いた。数カ月単位と言われ、「入院は無理」と言ったら主治医にものすごい剣幕で怒られた。そこで、初めて命に係わるものだと気づいた。若かったし、自分が病気にかかるわけないと思っていた。

気持ちがもやもやしていて検査の結果がわかる1か月くらいが一番しんどかった。わかってから後は「治療するだけ」とすっきりした。
初回の治療は、緊張しすぎてメンタルがやられていた。2回3回と回数を重ねるたびに、恐怖心が強くなった。またあのしんどいことをするのかと思った。
メンタルの不調(パニック・うつ)があった。途中で間質性肺炎を起こすなど、治療スケジュールが延期になることで気分の波があった。その間に病気が進まないかという不安もあった。

支えになったのは、家族だった。子どもをなんとか育てなあかんという気持ちが強かった。ただ、自分の母の気持ち(自分より先に娘が死ぬかもしれない)を考えるとしんどくなった。

Bさんアイコン

大変驚きました。最初は事の重大さがよく分かっていなかった上、受け入れる間もなく次から次へあらゆることで決断を迫られ(どの病院にするか、どういう手術法を採るか、治療方針など)、非常にしんどかった。真面目に生きてきたし、具合の悪いところなんて一つもなく、いたって健康に生活しているのに、勝手に「(診断で)がんだ。」と言われて手術だなんだと巻き込まれていった感じで腹が立っていた。
治療中は心も体もしんどくてもう何もできない「なんて不幸な私!」とずっと落ち込んでいた。

気持ちの回復のきっかけは、病気前に続けていた趣味を再開できたこと(仲間が待っていてくれた)と、病気のことをテーマにしたフォトエッセイで賞を取ったことだった。

Cさんアイコン

ショックでした。確定診断の2年くらい前からクリニックで経過観察(一度会社の健診で引っかかりマンモグラフィーと生検はしていた。半年に1度の頻度で経過を見ていた)していたが、その半年と半年の間に異変(胸のハリ)を感じ検査を受けたところ発覚した。
そのような経緯もあり「なんでやろう?」という気持ちだった。
検査もせず放置していたのなら「検査行ってないから仕方ない」と思えるが、「ずっと検査に行ってたのに」「もっと早く見つけてもらいたかった」という気持ちがある。
現在は、普段の生活では忘れているが、今回のように病気のことを思い出したり考えたりすると泣きそうになる。

Dさんアイコン

下の子を産んだ後だったので、痔だろうと思っていたが、結構な下血があり、クリニックに行ったところ、触診とその2日後内視鏡検査をした。その翌週には診断もされ、がんセンターの紹介もしてもらった。見つかったときはびっくりしたが、よく見つけてくれたな、子供どうしようかな(子どもが二人いる)、という気持ちだった。ちょうどコロナが始まりだしたころで、実家の母も手伝いに来にくい状況だったので、このあたりが必死だった。

自分の病気のショックはもちろんあったが、見つかってよかったな、の方が大きかった。
家族の段取りをつけることが大変だった。夫が一番大変だったと思う。入院2週間中は子どもを夫が一人で見ないといけなかった。とてもあわただしかった。
一回目の入院終わった後、人工肛門に慣れずに四苦八苦した。やっぱり体力も落ち、夫に負担がかかっているなとわかったので申し訳ない気持ちだった。
現在は復職している。私が元気になると家族もピリピリしなくなる。二回目の手術日当日に下の子が熱を出し、その対応があわただしかった。夫には負担をかけたなと思った。

Eさんアイコン

しこりを感じて健診に行って発覚。実感なかった。
それまでの生活がストレスフルだった(シフトのある仕事)ので、仕方がないかなとも思った。仕事に穴をあけたらあかんという気持ちがあった。諸々段取りをつけて手術した後から「なんで自分が」などいう気持ちがドドッときた。それまではスケジュールをこなす感じだったが。
しんどさを話せず孤独を感じた。当時はSNSなどもなく、同世代の患者が身近にいなかった。病院でも自分の親世代の人ばかりだった。友達や家族には病気のことを話しても心配かけてしまうと思ったので、身近な人にも話せなかった。患者会も年齢が合わず気が進まなかった。

治療後の困りごと、仕事は配慮してくれたが、3か月休職したので挽回しないととか、期待に応えないと、と自分自身が気を張って頑張りすぎたことがあった。しんどくなり、結果的に退職することになった。

Fさんアイコン

病気がわかったときは「やっぱりか」という気持ちだった。
なぜなら、両親が立て続けにがんで亡くなった経験があったから。下の子の妊娠がわかった頃、父の肺がんが見つかり、約一年後に父が亡くなり、そしてその子の授乳中に母乳の飲みが悪くなったことで、のちにがんが判明した。なので、変に納得していた部分もあった。
一方、父も母も病気判明後1年未満であっという間に亡くなっていたので、「がん=死」というイメージが強く、本当にどうしよう、誰に相談したらいいか、という気持ちだった。

前の同僚でがんを経験している方に相談した。電話で親身に相談を聞いてくれて、患者会を紹介してくれた。本当にそれで助けてもらった。何度もメールや電話で話を聞いてもらった。

Gさんアイコン

自分でしこりがあると分かったので小さい病院で診察したところ、大きい病院で検査してくださいと言われ、その検査で診断を受けた。乳がんですと淡々と言われたのですが、まさかという気持ちでした。
当時、芸能人で亡くなった方もいたので、自分も死ぬかもしれないという気持ちになりました。先生の説明が頭に入ってこなかったので、紙に絵(腫瘍の位置、手術の方法など基本的なこと)で書かれたものをもらったことが後で役に立ちました。

気持ちに変化が生じたのは手術をしてからです。抗がん剤をやることになったことで落胆し、悲観的になり泣きじゃくったのですが、やるしかないと思うようになりました。
これを頑張ったら一段落するという節目を意識するようになりました。入院中に同じ症状の人が1部屋に4人いたので、年齢は違うけれどもほかにも同じような人がいると思えたことも大きかったと思います。

Hさんアイコン

最初はまさか自分ががんになるとはという思いでした。
どんな治療していくのかわかっていないし、なにも考えていませんでした。
働く方がかっこいいと思って無理をしていたけれど、治療後に別の病気に罹り、働き方を改めた時期でもありました。

Iさんアイコン

自分でパチンコ玉大のしこりを見つけました。その後、街のクリニックで検査し、最終的に、手術は大学病院で行いました。診断後2~3日は落ち込みましたが、母が乳がんで全摘して元気な姿を近くで見ていたので、気持ちとしては、さほど長引かなかったです。母も元気で前向きな性格で、母から元気をもらえたのも大きかったです(当初母と仲が悪かったですが、病気をきっかけに距離がぐっと近づきました)。やはり、母親の助けが大きかったです。

5月ごろに「しこり」を見つけて6月ごろに手術。当時は、ちょうど4月から介護福祉の学校(ハローワークの職業訓練校)に通い始めたので休むこともできなく、当初は夏休みを使って手術しようと考えていましたが、すぐに手術をすることとなりました。
乳房の温存だと放射線や抗がん剤も必要になってくることと、シングルマザーで子どもを育てていく必要があり、まずは生活が最優先で必死でした。そのため、抗がん剤治療ではなく、左乳房は全摘を選びました。外見は普通で、温泉にも行けます。背中に10センチくらいの傷跡がある程度です。

シングルマザーで、当時は3人の息子が小学生以下であり、そのときから子どもたちの協力で家事と仕事の両立ができています。当時、病気や手術のことについては、子どもたちにちゃんと話をしました。手術前にしこりをさわってもらい、がんの事実を受け入れてもらうように家族で話をしました。また、同じく、友人にも触ってもらい、自己発見が大事だと伝えたかったです。

Jさんアイコン

・診断後
身近にがん経験者もおらず、大きな病気や手術もしたことがなかったため知らぬが仏状態で特に不安になるような想像もつかず、ただ仕事の都合をどうするかばかり考えていました。超早期だったためか、ご担当の先生の告知もあっさりしていたので、深刻に捉えるようなこともありませんでした。術前の検査などもただ予定をこなしていくだけで病気のことについて考える時間や余裕がなく、家族の方が心配しているのではないかということが気がかりでした。

・治療中
術後は思っていた以上に体の自由が利かず、放射線治療も精神的に苦労し、体の違和感はいつまで消えないのか、きちんと治療をしていただいているのにも関わらず目に見えないレベルのがん細胞が体内に回っており転移、再発するのではないかなどと考えてしまい、術前より不安感が増しました。術後の体の状態が想像と違ったということもあってか悪いことばかり考えていたように思います。
また、こんな早期の状態の患者であるにも関わらず悩みや不安がたくさん湧いてきて、もっと病状が大変な方に比べて自分のような者があれこれと騒ぐのはおこがましいという思いも常にありました。「がんサバイバー」というフレーズをよく目にしたのですが、サバイバーという言葉のイメージから、自分は生死の境を彷徨ったわけでもないのに自分もがんサバイバーなのか?と勝手にモヤモヤしていました。

・治療後
手術箇所の違和感が薄れたことや、幸いにも今のところ定期検診で1年1年と異状なしが続いてきたことで再発、転移の不安感も薄まっています。また発病したくはないですが、病気になった時はなった時、今まで何もなかった人もいつ病気が発覚するかはわからないし、自分もほかの人も、病気になったことがあろうがなかろうが同じと思うようになりました。

・気持ちの変化に影響を与えたもの
体調の回復(手術部分の違和感の軽減、精神的な疲労は心療内科受診)、時の流れ(日にち薬)、信頼できる方(特にがん相談支援センターの看護師さん)に気持ちをたくさん聞いていただいたことで、頭や心の中が整理されていったことかと思います。

Kさんアイコン

最初は医師の説明では問題なしで、二回目に別の角度からの検査結果から悪性が判明しました。乳腺外科医に不信感を感じ転院を決めました。「誤診ではないけれど、いったん異常なしといった医師や病院に、自分の体をあずけるわけにはいかない」と、そう強く思いました。
今の主治医と出逢って本当に良かったと思います。
なぜなら、治療だけでなく私自身の家族(女の子2人と主人の4人家族)のことを親身になって考えてくれるからです。
全摘の手術前にも何度も念押しし、温存かどうするか、真剣に問うてくれたことによって、医師をはじめ家族、友人に現状を知ってもらおうと決意し、そのことが支えになって、いままでこれました。周りの人に恵まれている私は幸せだとこの時感じました。

Lさんアイコン

年齢が若いのと、乳房を残すことで再発の可能性があるので全摘を選択しました。
1週間くらい落ち込んでいましたが、すぐに気持ちを切り替えることができました。
職場が大学病院で、職場の仲間に打ち明けて、助けてもらえました。

Mさんアイコン

診断されたときは、まさか私が?と信じられない気持ちでした。
気持ちの変化は日々ジェットコースターのようで、落ち込んで涙が止まらなかったり、突然前向きになったり、不安になったりの繰り返しでした。
当時2歳~8歳だった4人の子供たちの将来のことも不安になりたくさん考えました。 がんと宣告されたことは青天の霹靂で、がんに関する知識が全くなく、がん=死と考えていました。

下の子が2歳で、まだ満足におしゃべりもできないときでしたので、私はこの子と親子の会話をすることもできないまま死ぬのか思うと寂しくて仕方のない気持ちになりました。思い返せばその不安は杞憂だったのですが。
精密検査でおそらく転移はしていないと言われて、海面に顔を出せたようでした。
手術後の病理の結果を待つ間も、気持ちの振り幅は大きく不安な日々でしたが、その頃までには、病院でもらった冊子やインターネットを通じで様々な情報を得ていたので、前向きな気持ちのほうが大きかったように思います。

ステージが確定し、抗がん剤治療が始まると、とにかく日々の生活(家事と子育て)と治療の両立で、深く考える暇がないほど、目の前にクリアしなければならないことが山積みでしたし、抗がん剤の副作用ともうまく付き合えるようになったかと思えば、白血球の減少や薬疹などの新たなトラブルに直面して紆余曲折の9か月間を過ごしました。
抗がん剤治療後は、ホルモン治療を開始して現在に至ります。
現在は、毎日の飲み薬と、3か月に1回の通院で皮下注射をするのみなので、体調が悪くなることもなく家事や子育てのプレッシャーは減りました。
ほとんど日常に戻ったと言ってもいい状況とはいえ、このコロナ禍も影響してか、度々うつ症状が出るようになり、ちょっとした体の不調にも敏感になっています。気持ちの揺れとうまく付き合っていくことがこれからの課題だと思っています。

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