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質問2 悩み・不安①

 

質問2 悩み・不安①

下記の各点について、悩んだことや不安に感じたことはありますか。

① 仕事関係(就職、アルバイト、仕事との両立など)

Bさんアイコン

日本帰国後、再就職し5月から正社員で働きだした直後の7月に診断を受けた。
就職直後のタイミングだったので病気を伝えるときは非常に緊張した。小さな職場だったので、一部の人だけに伝えるというような選択肢はなかった。
偶然、直属の上司のお母様も同じ病気に、り患した直後だったこともあり、非常に協力・配慮していただけた。全員に伝えたおかげで、ストレスもなかったし、同僚もカバーしてくれた。自身からも病室から同僚全員にお礼の手紙を書いたり、職場復帰してからは重い物が持てなかったので、自分が出来る雑務等は積極的に行ったりした。
会社に(仕事上で)自身が出来ること出来ないことをしっかりと伝えた。そのためか同僚が協力してくれたおかげで、術後の治療もスムーズにいった。

抗がん剤は初回のみ入院したが、二回目以降は外来治療で行った。免疫が下がると外出できなくなるので週末に免疫が下がる期間になるよう主治医に配慮してもらった。
放射線治療は会社近くの病院で受けさせてもらうようにしたので、昼休みの休憩時間を利用し時間も45分延長してもらった。その分退勤時間は遅くなったが、最低限の休日取得で乗り越えることができた。

Cさんアイコン

精密検査を受けて結果が出るまでが辛かった。手術するとなると休めるが、結果が出るまでは精神的にしんどくても休めないから仕事に行っており、結果過呼吸になった。
手術の2週間前くらいから6カ月ほど休職した。
再建手術したため、背中に傷ができており、通勤ができるようになれば復職のタイミングだと医師から言われていた。
病気のことは、直属の上司のみに伝え、同僚には伝えなかった。

Dさんアイコン

理解のある職場だった。術前の展開が早かったので、急に検査が入るなどしたため、上司と先輩には早い段階からちょくちょくと報告していた。
手術1~2週間前から休んで、そのタイミングで同僚全員に伝えた。有休は人事課のアドバイスにより、復職後に利用できるように全部取得するのではなく少し残した。ある程度有休を使った後で傷病手当金の受給を開始し、残り3分の1を会社が補填する独自制度があったので給料面は満額支給されていた。

人工肛門造設後、閉鎖前に復職も可能と言われたが、閉鎖時期が不明だったことと、職場の上司が子も小さいのでずっと休んでいいと言ってくれたため、トータル1年近く休職した。復職のタイミングについては、職場も本人に任せると言ってくれていたし、自分でも体力低下が気になっていたこと、排便障害(1時間に3、4回トイレに行くこともあった)に不安があったことなどから、リハビリ施設の職員と相談しながら決めた。

Gさんアイコン

介護職に就いていたのですが、職場の人にはすぐに伝えました。施設長(女性)にも泣きながら報告しました。
抗がん剤や放射線治療の時はなかなか仕事ができなくて、10カ月くらい休んでいたのですが、職場の人の理解があったので、その間も心配なく休むことができました。

Hさんアイコン

ゆっくりした仕事をして、もう少し自分の時間を持てる方がよいです。

Iさんアイコン

介護福祉士の職業訓練受講中であったので、先生や仲間には病気のことを知らせました。
その上で、訪問介護や入浴介護で左腕が上がらず周りの人に助けてもらったり、実習先も力仕事の比較的少ない施設を選んでもらったりという配慮をしてもらいました。
現在は、介護職 (体力や収入の問題もあって) から転職し、生命保険の外交員も経験し、FPとしてアドバイスできるよう複数の保険会社を取り扱う代理店に勤めています。

Jさんアイコン

当時は非正規でしたが、管理者レベルの職務についていました。
手術で何日休むか、その伝えた休みの日数では復帰できる状態ではなかったので、休みの延長の交渉、放射線治療に通いながら勤務する調整、体調の回復とできる業務の調整は、体調が実際どうなるかわからないし、繁忙期だったため人員調整が難しいことが、自分でもわかっているため言いにくいが、自分が言わないとどうしようもないなど気持ちの負担が大きかったです。
上司によってもスッと受け入れてくれる人、難色を示す人と反応が違い、企業によっては作っているところもあるのかもしれませんが、がんに限らず傷病療養者の対応ガイドラインのようなものがあれば良いのにと思いました。

Kさんアイコン

専業主婦をしています。
以前は学校給食の仕事をしていましたが、今は治療の経過と中3、小5の娘のために在宅することが一番大事と考えています。

Lさんアイコン

仕事内容は、コロナ関連の配属からできるだけ感染リスクの低い配置にしてもらい、協力的だったのですごく助かりました。病気を理解してもらうことで自分も大切にしてもらっているという気持ちになれました。職場の理解があるので、今まで通り仕事を継続できることがうれしいです。

② 恋愛・結婚/妊孕性(にんようせい)について

Aさんアイコン

主治医から、次の妊娠について「5年くらいは無理」と言われていた。
「抗がん剤放射線もするし全身に薬が入るから、卵子にも影響がないとは言えない、」というような言い方だった。卵子の凍結なんて話もなかった。
子供はあきらめなあかんのかな、と思っていた。
これから妊娠や結婚を考えている人は、そういう相談ができる場を確保したほうがいい。

Bさんアイコン

当時は卵子凍結などの情報はまったくなく、仕方ないことだと思っていた。
もともと結婚願望はなかったからそれはまあいいやとも思った。
ただ、子どもを持てなくなる可能性がある、という点は結構ショックだった。それまで子どもほしいと思ったこともなかったが、「できなくなる」という事実は自分が欠落した人間になったように思えて落ち込んだ。

Eさんアイコン

恋愛や結婚には消極的になった。実際に病気のことを話したことで相手が離れたこともあった。なので同じような悩みの人に対し、「ぶつかれ」とは言えない。
恋愛等に対して消極的になるといった同じような悩みを持ってる人は自分だけじゃない、ということがわかれば少し気持ちが軽くなると思う。

Gさんアイコン

まだ28歳なので結婚や子どもよりまずは治療に専念しようと思えました。
ただ、当初は5年で治療が終わると言われていたのですが、学会のガイドラインでも10年は治療しないといけないと記載されており、先生からも10年かかると言われたときは、治療が終わったら40近くになるので、子どもはどうしようとはじめて焦りました。

先生からは淡々とそのことを説明され、告知の時と同じくらい傷つきました(あとであの時はごめんねと謝られた)。来年で治療が終わると言われていますが、今からだと高齢出産になり焦っています。今でも治療に専念したいという思いは変わりなく、テレビでも高齢出産のニュースがあるので勇気をもらえています。

Hさんアイコン

彼氏がいたが、髪の毛もないし、胸もないし、別れた方がいいかと思いました。今もちょっとは思ったりします。
妊孕性―卵巣を守るためにリュープリンを打ってから抗がん剤をしました。
卵子を凍結するか卵巣を守る方法を選べたのですがが、生理を止めるので、更年期障害のようなのがひどかったです。動悸、めまい、汗がひどくてしんどかったです。

Iさんアイコン

32歳でシングルマザーになって3人の男子を育ててきました。
り患のときは、そのことに必死でした。
すぐに働く必要性からの全摘手術の選択でした。

Jさんアイコン

治療開始時に特に気にしなければならない事情や予定がなかったことと、治療終了後でも妊娠出産は間に合う年齢とのことだったので、一瞬気にはなりましたが考えないことにしました。

Kさんアイコン

結婚生活は順調です。主人の理解と協力が得られています。

③ 人間関係(家族とのこと、友達との関係、同僚との関係など)

Aさんアイコン

友人には一部にしか言わなかった。
お見舞いが嫌だった、弱い自分を見せたくない、相手にも気を使わせたくないという気持ちがあった。
子どもの日々の成長を見守れないのがつらかった。

Bさんアイコン

家族が毎日お見舞いに来てくれてとてもありがたかった。
友人には、がん検診をするように伝えた。友達を通して私の病気を知った「友達の友達」(私は直接知らない人)から、いきなり「マイタケが効くから食べなさい」とメッセージが来たときは参った。友達にも怒りを覚えたし、ちょっとけんかになった。(その後仲直りしたけど)

Eさんアイコン

アドバイスが欲しくて話しているのではなく、ただ話を聞いてほしいだけだが「病気のことを伝えて相手に困った顔をされたら」という気持ちがあり、身近な人の方が伝えにくいものがあった。

Fさんアイコン

一番悩んだことは、子どもが6歳と1歳だったので、子どもへの伝え方がわからなかったこと。相談していた患者会の方から、事実は事実として・はっきりと・カラッと・明るく伝えてはどうか、というアドバイスをもらった。

自分がいっぱいいっぱいになっていて子どもも不安定になってしまっていたが、事実を伝えることで子どもも覚悟が決まり、そこからやっと前向きになることができることができた。
事実を伝えたことで、子どもも状況が理解できた。(ただし、子どもへの伝え方は、その時の状況によって、その時の子どもの年齢によっても伝え方は変わってくると思う。)

Gさんアイコン

母が1人います。実家に帰るという方法もあったと思いますが、一人だから治療を頑張ってこれた気がします。
抗がん剤で髪の毛が抜けたときなど、明るく振る舞っても家族でも気を使ってしまいます。相談に乗ってもらえる友達や支えてくれる同僚の存在が大きかったです。

Hさんアイコン

・家族
食事にはうるさくなりました。健康に気を使っています。

・友人
割と仲の良い子には言っていました。お見舞いにも来てくれて、騒がしくなってあまり言わない方がいいかなと思いました。ありがたいことに恵まれていました。おかげで何とか乗り越えられました。だいぶ助けてもらいました。
具体的な内容は友達にいいにくいこともあったので、当時ブログに参加してオフ会にも出ました。

Iさんアイコン

母が一番助けになったと思います。
同じ病気をしたものとして精神的にも肉体的にも気持ちがわかってもらえました。
また、3人の子どもたちもとても協力的で洗濯物や家事を分担してくれるので、すごく助かりました。

Jさんアイコン

・家族
特に何か言われることもなかったので、自分の扱い方に困っていないかとこちらが心配しました。同性のきょうだいも同じ病気に注意するように言われましたので大きな不安を与えることになってしまったと時々考えます。

・友人関係
古くからの友人に病気(がんではない)入院経験の話を聞きたかったので、術後1か月くらいの時に初めて家族や職場以外の人に病気のことを話したのですが、かなり驚かせてしまい、自分もまだ気持ちが落ち着いていなかっただろうし、タイミングや言い方がよくなかったのかなと申し訳なく思いました。

・職場関係者
シフト制で業務量も多く活動的な仕事でしたので術後の体調や通院治療等でどうしても勤務に影響が出るため、社内の人に病名を伝えるべきか否か、伝えるなら誰に伝えるかは悩み、複数の上司や医療者の方に相談しました。おそらく病名は言わなくてよいという話になったかと思いますが、自分は何も言わないでいることがしんどかったので、メンバーを絞って伝えました。

Kさんアイコン

周りの協力によって今の自分があると実感しています。

Lさんアイコン

だいぶびっくりされました。
母方にがんの人が多く、若くてり患しているから遺伝子検査も勧められましたが、将来を知りたくないので今はやりたくないと断りました。

Mさんアイコン

家族にはなんでもありのままに話していました。子どもたちにも病気のことや治療のことを正直に話していたので、関係について不安になることは少なかったです。
子どもたちは、習い事を休会したり、日々の様子がガラッと変化したので、不安になっていたかもしれませんが、私以外にも、夫や祖父母が近くで見守ってくれていたので、そこは大船に乗った気持ちでお任せしていました。
ママが乳がんで治療をするというストーリーの絵本を2冊ほど買って、読み聞かせました。子どもたち自身でも自分から絵本を読んだりして、安心につなげていたように思います。

当時4年生だった長男は、がんに関する図書を学校で借りて自分なりに調べて理解をしようとしていました。彼は現在6年生になりましたが、お医者様顔負けでがんになるメカニズムについて説明してくれます。頼もしい限りです。
当時2歳だった一番下の子は、今は5歳になり、もの心が付く前後で私の治療がありましたので、ママが乳がんというのは当然のこととして受け入れているように思います。

近しい友人たちには報告をしたり、子どもたちの関係でどうしても迷惑をかけることになってしまうであろうママ友や学校には正直に話して、協力をしてもらったりしました。治療中はとても孤独だったので、周囲から取り残された気持ちがありましたが、それ以上に家の中のことで精いっぱいで周りに気を配る余裕がありませんでした。
私の状態を見て、話しかけにくい、気になっていても様子を聞きにくいと思っていたと、後から話してくれた人もいます。

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